投句された中より、きらりと光る佳句を紹介して参ります。
猛暑のひまわり 咲太朗
お題の上の句と並べます。
顔は笑ってます
猛暑のひまわり
今月のお題(上の句)「顔は笑ってます」は、林家菊丸師匠から。
ポイントは「顔は」の「は」です。
「顔は笑ってます」とくると、本心じゃないのか?
って、日本語を理解する人であれば、すぐに感じ取ります。
このたった1文字だけで、その人の「本心」まで見抜けることは、すごいことだと思います。日本語はとても詩作向き(そしてもちろん落語向き!)の言語です。なんて複雑で繊細な言語でしょうか。これを苦労せずにマスターしている我々は、とても幸運なのだと思います。最近、ライトハイクを使って「認知トレーニング」を行なっていますが、こんな素晴らしい道具(日本語)があって、みんなそれを持っているのだから使わない手はないのです。新たに用意する道具もスキルも、全く必要ないのですから。
さて。
咲太朗さんの下の句に唸りました。
単純に作品(フレーズ)自体の驚きもありましたが、投句名(咲太朗)さんとのリンクで感慨も倍増です。かねてより申し上げておりますが、投句名も作品のうちですので、
猛暑のひまわり
咲太朗
と並ぶだけで、ワオってなっちゃいます。
投句された咲太朗さんご自身は意識されていないことですが、受け手である我々は、咲太朗さんがそのお名前(投句名)でこの下の句を投句されたという、その一連が「詩」だと感じてしまうのです。
言葉は、何かしら意味を持って、そこにある。いる。
一見、意味のないものに見えるかもしれませんが、どこかで何かと結ばれて、光る時がくる。逆に、何かを照らす時がくる。言葉は、そういうものだと思うのです。待ち伏せているというか・・・それは、偶然の出会いの時もあり、言葉を発する我々が見つけてあげるものでもあります。言葉と言葉の仲人として。
「咲」は「笑う」と同義なんですね。
花が咲くのを、かつて、先人は「笑う」と同じと感じていたわけです。
今だって、その感覚は失われていません。
そういう感覚がありますから
顔は笑ってます
猛暑のひまわり
咲太朗
これが、一気に目に入ってきた時に、唸りました。
咲太朗さんはご自分のお名前とのリンクは感じることなく、「ひまわり」を出してこられました。でも、受け手である私には
笑ってます → 咲太朗
顔「は」 → 猛暑
と、見事な言葉のあやとりを見たような感じになるのです。
そして、そこに描き上げられた「画」
真夏の向日葵。ものすごい黄色が、見えてくるのです。